霊諍山における土俗信仰について

平成13年 春
社殿造営記念

はじめに
このたび、霊諍山の社殿造営及び社殿周辺並びに参道などの環境整備を実施いたしましたところ、親類はじめ多くの信徒の皆様には浄財を寄進され、有り難うございました。厚くお礼申し上げます。さらに長年郷土史の研究に尽力されておられます、浅野井坦先生には、「霊諍山における土俗信仰について(概要)」を執筆いただきありがとうございました。
浅野井 坦 先生 経歴
昭和8年1月2日 長野県坂城町で出生。
上田高校から信州大学教育学部へ、昭和30年卒業。
寺尾小学校や坂城小学校等で教鞭をとる傍ら米山一政先生に執事し、県内各地で考古学・民俗学等の研究・調査にあたる。
現在、長野県文化財保護指導員、日本民俗学会員として御活躍中。

資料の写真

霊諍山の概要

更埴市注1八幡、郡の大雲寺と裏山一帯は長野県自然保護条例により昭和57年に「大雲寺郷土環境保全区域」に指定された。大雲寺を起点として自然探勝歩道も県や市の手で整備された。「霊諍山の石仏」として世に知られてきた百体以上はこの裏山(標高490M)にある。

注1: 更埴市は、2003年(平成15年)9月1日に埴科郡戸倉町、更級郡上山田町と合併して千曲市となる。

保全区域に指定され遊歩道が設けられた理由については、池や古寺のたたずまいもさりながら、土俗信仰に根ざした特異な石神仏群がある霊諍山の存在が、大いに力を貸したにちがいない。

霊靜山の開祖

信者は「お山」と尊称するが、ここを開いた人は郡の御岳教中座の北川原権兵衛(慶応2?昭和28)である。彼が昭和10年に記した「霊諍山開山申請書」によると、母の癪の病を信仰の力で治すため明治18年から信仰心に心がけて行を積み、同24年に神がかりができるようになった。家に戻り人々の願いを神に取り次いだため、信者が増えていった。

そこで山上に神々を祀ったが、石神仏は信者が願課として寄進したものと記している。御岳教は明治15年に神道大成教から出雲系の平山省斎が分派独立されたもので、神がかりによる宅言が特色である。行事は神式だが護摩を焚き般若心経を唱える。

一方、神習教は芳村正乗が明治14年に組織したものである。御岳講の信者を自分の派に入れて勢力を拡大しようと、両派の抗争は激しかったと伝える。

権兵衛は、心の広い人だったらしく、抗争相手だった習教とも手を握り、それを受け入れている。御岳教の信仰拠点では山座神といわれている「御岳大神」「八海山大神」「三笠山大神」や「不道明神」「摩利支天」の碑が多数の霊神碑の中に交じって造立されている。ところが霊諍山の石神仏は御岳教以外のものが大部分である。

修那羅大天武の弟子 和田辰五郎

権兵衛は家で農業を営んだが、信者が増えるに連れて山上の神を衛る人が必要と考え、親類にあたる和田辰五郎(文政8?明治44)を招き、社殿に住んでもらった。

辰五郎は隣の中原の生まれで修那羅三人の高弟の一人であった。若い時から信心に励み、夜八幡宮に詣で、その足で冠着山に登拝する荒行を、百日間続けたこともあると伝えられている。彼は温厚な性格で生涯独身を通した。辰五郎は祖父の名を襲名したもので、それ以前は敦野理と称していた。長じては開心行者とも名乗り、篠ノ井岡田地区新田の北西山中の「しょんならさん」には、開心行者と刻んだ碑も現存している。修那羅大天武の死は明治5年、そのころ権兵衛は7才の幼児、辰五郎は40代の後半であった。修那羅の死後、辰五郎は生地に戻り、行者として暮らしていたらしい。

霊諍山の石神仏の中には、権兵衛の開山以前の作があることから、辰五郎が権兵衛に招かれたときそれらを持ち込んだものと考えられる。

辰五郎は「お山のお爺さん」と周囲から言われていたが、死後は神として権兵衛の神がかり御座(おざ:木曽ではおんざとも言う)に出現するのようになる。

神習教霊諍山講社事務所

旧社殿の入り口には、表記のような大きな表札が掲げられていた。長野県庁地下倉庫にあった文書によると、その許可は明治25年5月で設置場所は八幡村276番地とある。

統治への神習教の進出は早く、明治17年には八幡宮の神宮寺社僧達を対象にして、神習教会所が設けられてもいる。

元更埴市教育長で中原の和田基の教示によると、八幡276番地は郡の西隣の中原で、辰五郎の生家の近辺である。この地は水車小屋と物置があった場所で、後に酒屋が手に入れ倉庫としたという。

文書は許可書のため出願者の名前はないが、辰五郎が当然その出願にかかわったと推察される。

修那羅大天武は現安宮神社の地に落ち着くまで、転々と居所と名を変えている。天保5年(1839)40歳のときカイツカ山(坂井村)に住んだときは、霊諍山と法重仙人、ついで胎願坊と名を改め、安政2年(1855)61歳のときは天狗仙人と名乗っている。字の下手なことを修那羅様のようだというが、大天武の書は誤字・当て字が多く、幼稚である。辰五郎と高弟仲間の上田・いわかどでは、霊諍山を霊照山とも称している。近世においては文字が読めれば、それで結構意味が通じた。文字の異同はさして気にしなかった。それゆえ諍も淨も照も同じと解してよいのではなかろうか。諍には「いさめる、うったえる、あらそう」の意味があることからすると、本来は淨のつもりだったのではなかろうか。

いずれにしても、当地で霊諍山の語を知っている人物は、辰五郎を除いていないと考えられる。それゆえ出願にかかわり、権兵衛に招かれたとき自分の看板と表札を持ち込んだのである。

おわりに

御岳教、神習教、修那羅の教えの三者がミックスし独特の土俗信仰に育っていったのが霊諍山といえる。周辺の各信仰拠点が滅びていったのに、なぜここが残ったかというと、霊諍山の関係者が金儲けに走らず、高潔な人柄だったことによるのではなかろうか。特に辰五郎は私欲に走らず、大天武同様に生涯独身でとおした。例えばすぐ北の小坂城横手の山上には、幕末から明治初めごろまで行者の良仙が住み、霊諍山同様「お天狗さん」といわれ、村人のために加持祈祷を営んでいた。ところが里の娘とねんごろになって神通力を失い、姿をくらましたと伝えている。当時の村人は非凡な人を尊敬した。西洋医学が入ってきて、それは一部の金持ち階級のものだった。病人が出ると行者に頼めば安上がりで祈祷とともに薬草など教えてくれる。常に村人に寄り添い、親身になって考えてくれたため霊諍山の信仰が続いてきたといえる。最後の行者だった柄木田高実(今回の工事委員長の兄さん)は、「霊諍山はまったく金のかからないお宮だ。お宮で食っているものは一人もいない。」と言ったが、それが今日まで持ちこたえてきた理由ともなろう。

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